歴史

2016年12月 9日 (金)

「真田太平記館」に行ってきました。

上田市の「真田太平記館」に行ってきました。

最近は、真田氏にゆかりのある様々な場所に行ってきましたが、基本的に大河ドラマ「真田丸」の放送になぞらえていたため、あえて原作の異なる「真田太平記館」は触れずにいました。

しかし、同じ真田を描いた物語に違いはないため気にはなっていたのです。

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「真田太平記館」は、池波 正太郎作の真田氏を描いた物語「真田太平記」を冠に開館されたいわば「池波 正太郎館」です。

池波 正太郎さんが好きな方にはたまらない、肉筆の原稿や挿絵の原画などが沢山展示されています。

特に「真田太平記」の資料は豊富で、「真田丸」とオーバーラップして楽しめました。

しかし、来館した時間が遅かったため、ささっと館内を回ってしまったのが心残りでした。

館の入り口には「真田丸」のポスターが。ま、同じ真田ですし、ここは真田のおひざ元の上田ですからね。

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2016年11月 1日 (火)

真田氏ゆかりの建物 長窪本陣/小県郡長和町

今回は、中山道の江戸から数えて27番目の宿場である長久保(長窪)宿の紹介です。

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この宿場町には、真田信繁と梅(大河ドラマ真田丸での名)との間に生まれた「すへ(すえ)」(おきく)が嫁いだ長久保本陣の石合家があります。

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現在、建物は民家となっているため、内覧はできません。

(次の写真のみ資料館提供によるものです。)

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この長久保本陣のすぐ隣には「高札場」があり、由緒ある大きな宿場町であったことが想像できます。

(「高札場」とは、幕府や藩主が取り決めたことなどを告知する掲示板のことです。)

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父信繁は、大阪夏の陣が迫ったころ、娘すえを案じて夫である石合十蔵道定宛に手紙を書いています。

文面の一部に「意に沿わぬことがあったとしても、すえのことをお見捨てなきようお頼み申します。」と言うような内容が書かれています。

父信繁は、この手紙が最後になってしまうかもしれないと思う覚悟からか、後に残す娘を案じている思いが伝わり、切なささえ覚えます。

すえは、長久保本陣の4代目当主である石合十蔵の元で天寿を全うしています。

次回はすえのお墓のある寺を紹介します。

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2016年10月19日 (水)

真田氏ゆかりの建物 「松代藩文武学校」②/松代町

前回に引き続き「松代藩文武学校」の後編です。

真田氏のことがいろいろと解ってくると領地の住民を大事にし、寄り添って生きた武士なんだなと思ってきました。

年貢の取り立ては甘く、殺生を伴う武士でありながら仏門に精通し、学問を家族や家臣にとどまらず住民にまでも環境を提供するなどなど。

真田は急造あしらいの少数の兵でありながら何故大群の兵を押しのけられるほどの高い士気があったのか。

これは、家臣や住民の真田氏に対する信頼関係以外考えられませんね。また、戦で手柄を立てると懸賞まで与えたといいます。

今旬の「都民ファースト」は、遠い昔に既に真田氏は実践していたということですね。

上司と部下のより良い信頼関係は、いい仕事に繋がり、それはボーナスという対価として反映する。というように、現在も変わりがないですね。

前置きが長くなってしまいました。こちらが、弓道場です。

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そして、外部の遠的場の様子です。奥に安土が見えます。

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まるで、江戸の町に紛れ込んだようです。

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映画の撮影などにも使われるそうです。なにせセットではなく、本物ですからね。

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倉の拡大です。美しいですね。

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奥が学校から見た「文武学校」の冠木門の正門です。

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この「文武学校」の隣が現在の小学校となっています。

小学校を建てる時にこの施設を取り壊さなかった松代の人達が素晴らしいと思いました。

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2016年10月17日 (月)

真田氏ゆかりの建物 「松代藩文武学校」①/松代町

真田の江戸屋敷に設けられていた文武舎を基本とし、松代城下の若者にも教育の場を提供しようと江戸に遅れること二年、松代城下に「松代藩文武学校」が開設されました。

全国的にも藩で設立した純粋な「文武学校」は珍しく、さらに創設当時のまま残っていることも他にないということで、この施設は国の史跡として保護されています。

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昭和の初期まで学校として使用されていたということです。

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この座敷には座り机がずらりと並んでいたんでしょうね。

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建物の中には囲炉裏の部屋もありました。

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こちらは「剣術所」で、今でも稽古や大会に使用されているということです。天井梁が見事ですね。
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次回も続けて紹介します。

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2016年9月12日 (月)

真田氏ゆかりの建物 真田邸②/長野市松代町

前回の真田邸①では外観を紹介しましたが、今回は室内です。

玄関を入っていくと長い廊下が奥へと続いていました。

この赤い敷物(OIC)は、内覧用の養生で、本来は「畳廊下」です。

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いわゆる縁側が部屋を取り巻いています。これだけの建物の雨戸の開け立てだけでも一仕事ですね。

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照明が無かった時代の読み書きは大変だったでしょうね。

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雄床、雌床に違い棚と天袋。典型的な日本家屋様式ですね。

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こちらの部屋は、なんと今でいうクロス仕上げ。意外とモダンな様式を取り入れていてビックリです。

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長押(なげし)にはお洒落な釘隠しが使われていました。こちらは縁起物の巾着袋のデザインです。この建物にはほかのデザインの物も使われていました。

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世界的に人気急上昇の「日本庭園」。手入れが行き届いていました。流石、国の重要文化財に指定されているだけの値打ちがあります。

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外側(庭)からは立入規制がされているため、一部分しか撮影できませんでした。

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何棟もの蔵が並んでいました。

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豪華絢爛の御屋敷ではありませんが、「真田家」のつつましやかな家風のなかにあって格式も感じることができます。

戦いで亡くなった住民のために、寺には多額の寄進をおこない、不作の年の年貢を半分にするなど住民に寄り添い苦しめることはなかったということです。

たった「10万石」だった訳は、真田を知れば知るほど納得です。

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2016年9月10日 (土)

真田氏ゆかりの建物 真田邸①/長野市松代町

この建物は松代藩9代藩主の真田幸教が、母の貞松院のために造った松代城の城外御殿です。

何故、母親の御殿を城外に造ったのでしようか?。

実は父の真田幸良は、その更に父である松代藩8代藩主の真田幸貫より先に亡くなってしまったため、真田幸良の長男である真田幸教が家督を継ぎ、第9代の藩主となってしまいました。

当然、藩主の妻となるはずだった母親の貞松院は、夫が藩主になる前に亡くなってしまい取り残されてしまったため、子の真田幸教が母のために城外に御殿を造ったということのようです。

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内側から撮影した門です。冠木門ですね。

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かなり大きな建物ですが、家を取り巻く塀を見ただけでその規模の想像がつきます。

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こちらが建物の図面ですがいくつ部屋があるのか数えられないほどです。

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写真が多くなったため、建物の中は次回紹介します。

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2016年8月22日 (月)

真田氏ゆかりの城 / 丸子城

徳川軍は、第二次上田合戦において上田城攻めに手こずり、結局攻めきれずに諦めて最終的な目的地の関ヶ原に向かおうとしましたが、ここで更に徳川軍の行く手を阻み進軍を遅らせた城がありました。

それが「丸子城」です。徳川と、この「丸子城」との因縁は第一次上田合戦にさかのぼります。

徳川に「沼田城」を明け渡すことを断った真田昌幸に対し上田城攻めの第一次上田合戦が勃発しますが、徳川軍は苦戦して落城できないために矛先を「丸子城」に移して攻撃しました。

しかし、この「丸子城」も真田氏の出城、そう易々と落とせる訳がありません。あらゆる手を尽くすもどうにもならない所に上田城からの鉄砲隊の追撃に苦戦し、城下の民家に火を放って真田群の追撃を拒みました。その間に徳川軍は逃走退陣したということです。

そしてその第二次上田合戦。上田城を攻めきれず関ヶ原に向かった徳川軍でしたが、中山道の和田峠への途中にこの「丸子城」があり、この地区を通過するにあたり、苦い戦いの記憶がある「丸子城」の反撃を恐れた徳川軍は「丸子城」を避けて山の中の回り道を余儀なくされ、相当手こずったとのことです。

徳川秀忠が関ヶ原に遅れた理由がいくつか挙げられていますが、実はこの「丸子城」の存在もその理由の一つにあったようなのです。

そんな歴史に隠れた城「丸子城」に行ってみました。

駐車場からの入口(登山口?)です。お決まりの真田丸の幟が掲げられていました。

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この坂道の一段上の平地は公園になっていますが、上田城に仕えた家臣の根小屋だったということです。

公園を通過し、いざ城へ。

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何処かの山城で見た道の風景にやな予感。

案の定の険しい山城に汗みどろで二の丸に到着しました。

二の丸の跡地には見張り櫓が再現されていました。馬の背のような砦の両脇は依田川と内村川に削られた絶壁となっていて鉄壁の要害です。

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櫓から前回紹介した「虚空蔵山」が確認できました。

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二の丸の砦で風に当たって一服し、本丸へと向かいます。いったん下りますが更に本丸へと繋がる急こう配の道が繋がっていました。

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やっとのことで本丸に到着。この写真の左に「あづまや」の休憩所が造られていてゆっくりと休むことができました。傍らに井戸の遺構があり、飲物を持ってきていないことを後悔することしきり。

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徳川が向かった先の景色です。右方向が和田峠です。

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真田氏の里の方向から見た「丸子城」の山です。

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実はこの「丸子城」は、最初から真田氏の物ではありませんでした。

そもそもは、.この領地を取りまとめる依田丸子氏の居城だったのですが、当時徳川方だった真田氏が北条方だったこの「丸子城」を攻め落とし、以後真田氏の配下になったということです。

その戦(いくさ)が、真田信繁の初陣だったのだといいますから、ここが真田信繁の原点であるかも知れません。

徳川は、自分の家臣が落城した「丸子城」に結果的に散々苦しめられてしまいました。

徳川の真田に対する気持ちは想像に難くありませんな。

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2016年8月18日 (木)

真田氏ゆかりの地 / 第二次上田合戦 染屋台

今回は、第二次上田合戦の折、上田城を攻めるために徳川秀忠が前線基地とした地、「染谷台」を紹介します。

上田国分寺において真田昌幸に上田城を明け渡すと騙されて一杯喰わされた徳川秀忠は、小諸城を出発すると国分寺の先にある上田城を見渡せる染屋台に着陣しました。

徳川秀忠が着陣した染屋台地の「染屋城」は、真田が上田城の東方面の警護をしていた場所でした。その近くからの現在の上田城方面の見晴らしです。

当時は建物が殆ど無く、動きは手に取るようにわかったと思われます。

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現在、城跡は「豊染英神社」の境内となっていますが、城の面影は殆どありません。

こちらが、その「豊染英神社」です。

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そして、その神社裏手の染屋台地には、四万近くの徳川軍の兵隊が台地を埋め尽くしました。

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この染屋台地の一番南方向には「諏訪宮」が有り、南方の見張りを固めたようです。

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しかし、真田は東にある「虚空蔵山」(伊勢崎城)に騎馬隊を伏兵させていました。

山の向こう側が染屋台地と上田城方向です。左は、上信越自動車道です。戦国の武士たちはこんな時代になるとは想像も出来なかったでしょうね。

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こちらは、反対側の染屋台方向から見た景色です。上信越自動車道が「虚空蔵山」を巻き込むように走っています。

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「虚空蔵山」方面から見た上田城の様子。

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「上田城」に攻め込んで手薄となった「染屋城」の徳川秀忠の本陣を「虚空蔵山」に潜んでいた真田の騎馬隊が攻め込むと徳川陣営は右往左往の大混乱に陥り、統制の取れない状態になったということです。

徳川秀忠の率いる大群は、真田の戦略に振り回されまんまと策略にハマってしまい時間を費やしてしまいました。

その結果真田昌幸は、徳川秀忠の4万近い大軍団を関ヶ原の戦いに参戦できない足止めに成功してしまいます

徳川4万弱、真田2000という20分の1の弱小兵力での成せる業ではありませんね。肝が据わっているというか、軍旗として掲げている六文銭の決死の覚悟なのか。その常識破りの行動を読めないところが戦闘知力なのでしょうか。流石に戦国の世に「真田」有りの名を残すだけのことはありますね。

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2016年8月 8日 (月)

真田まつり/真田鉄砲隊演武

4月の上田市内で行われた「上田真田まつり」に引き続き、8月6日に真田の郷で「真田まつり」が行われました。

今年は、NHK大河ドラマ「真田丸」が放送されていることもあり大賑わいでした。また、「真田丸」出演の寺島進さん、長野里美さん、大野泰広さん、中島亜梨沙さんらが掛け付けて華を添えていました。

このお祭りには真田鉄砲隊の演武があるため、気合を入れて写真に収めてきました。

出陣前の作戦会議です。 「開運!なんでも鑑定団」の鉄砲鑑定士として有名な澤田平さんが指揮をとります。

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          いよいよ始まりました。「構えー

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          「放てー」 鉄砲隊から一斉に火を噴きました。

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          澤田平さんから丁寧な説明がされていました。

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          前後から二段構えの一斉射撃です。

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          真田鉄砲隊の大勝利で幕を閉じました。戦の後の余韻です。

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          勝利の頭「真田信繁」も誇らしそうです。

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          真田鉄砲隊の皆さんお疲れ様でした。
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