毎日記念日

2013年4月22日 (月)

渋谷駅 忠犬ハチ公像が設置された日

1934年4月21日、渋谷駅にハチ公像が設置されその除幕式が行われました。

秋田犬のハチは、大学教授の上野 英三郎氏の愛犬で、教授の出勤の行き帰りに渋谷駅に見送り、そして迎えを日課としていました。ある日教授は脳梗塞のため教壇で倒れ帰らぬ人となってしまいましたが、そんなことを知らないハチは来る日も来る日も主人の帰りを渋谷駅の改札口で待つ日々が続きました。

ハチは、主人の姿が消えてから3日も食事をとらなかったそうです。そんな姿がある日新聞記事となり、飼い主を待ち続けるハチは一躍話題の忠犬として知られ多くの人に感銘をあたえることになります。

新聞に取り上げられるまでは渋谷駅に居座る犬として時にいじめられ虐待されたそうですが、報道後は一変して可愛がられ食事を与えたりする人もいたそうです。

そんな中、ハチの話に感銘を受けた美術家が銅像を造りたいと申し出ると、国鉄や愛犬家協会が後押しをして渋谷駅前に銅像を設置することになりました。後に、ここが渋谷駅ハチ公口の名前となります。

生前に銅像となったハチ公でしたが、翌年に渋谷駅のハチ公口とは逆の普段行かない稲荷橋のたもとで亡くなっているのを発見されました。死を悟ったハチは、どうしても会いたい主人を見つけるために、駅の周りを探し回ったのでしょうか。

死後も美談と共に銅像として残ったハチでしたが、現在の銅像は2代目となるそうです。初代の銅像は不幸にも戦争の時に供出されてしまいました。機関車の材料として熔解されたそうですが、鉄砲玉などの武器として使われなかったのが救いです。しかし、その熔解作業は終戦の日の前日だったそうです。運が悪いとしか言いようがありませんね。

私がハチ公像を初めて見た時は、道路側を向いていましたが、現在は駅の入口側に向きを変え、位置も変わりました。

こちらは、東横線渋谷駅の切替前の撮影に行った時、正にハチの亡くなった場所から撮影したものです。

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2012年10月11日 (木)

鉄道安全確認の日

今日は、「鉄道安全確認の日」です。

1874年の今日、新橋駅構内にて日本で初めてとされるポイント故障による脱線事故が発生しました。鉄道開業から2年目のことだったそうです。不名誉な事故が記念日となってしまったわけですが、今や日本の鉄道は世界一安全で正確とされています。

過密ダイヤと聞くと悪い印象を受けやすいですが、正確な運行を行わなければダイヤも過密にできません。日本人の成せる業ですね。

そうそう、なぜ鉄道の運行図表をダイヤというかというと、単純に綺麗にカットされたダイヤモンドのような形だからだそうですね。

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                    ありし日の屋代線より

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2012年7月 5日 (木)

日本初の電力会社が開業した日

日本中の原子力発電所が全停止していましたが、今月に入って遂に大飯原発が運転を再開し、今日7時に送電が始まってしまいました。

絶対に事故を発生させてはいけない原子力発電所ですが、ひとたび事故を起こしてしまうと未曾有の大災害を引き起こしてしまう怖ろしいものです。絶対の安全なんてあるんでしょうか。効率より、安全を優先してもらいたいものです。

前置きが長くなりましたが、奇しくも1886年の今日は、「東京電燈株式会社」という電力会社が日本で初めて送電を開始した記念日です。

こんな記念日に時を同じくして送電するとは。あまりの偶然にビックリです。

このころ電力会社は、時代の需要の流れとともに多数起業されました。この時期の電力会社は鉄道事業も併設しているケースが多く、この東京電燈株式会社も、、前橋電気軌道・利根軌道・吾妻軌道・江之島電気鉄道などの鉄道事業を行っていました。

こちらは、1953年に撮影された高崎駅前の路面電車の様子です。

Vcm_s_kf_repr_882x588          (高崎観光協会発行 「観光たかさき」より)

こちらは、現在のJR吾妻線の長野原変電所です。

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2012年1月28日 (土)

逸話の日/「ナイキ」は、日本製のシューズだった。

今日は、「逸話の日」。

察しの通り「い」ということで、1月28日の今日を選んだようですね。逸話といえば、あまり知られていない話なのですが、今日は2つ紹介します。

まず、その1。皆さんは、「パンダ年」って知ってますか?。これは、中国での話ですが、その昔12支の中で唯一、辰だけ実際に存在しない動物なのは変だ。という軽い発想で辰年だけ入れ替えることになりました。じゃ、何にしようかということですが、中国ですからパンダが候補に上がるのはごく自然だったんでしょうね。

さー、「パンダ年」にチェーンジと簡単にいくと思ったら大間違い。辰年生まれの人から大反発。そして、中国の古来からの絶大な支持を得ている龍文化を排除するとはなにごとだ。ということで話はあっという間に消滅してしまったということです。

この話、普段から冗談を言っている私なので、話を絶対に冗談だと信じて疑わなかった人が突然「あの話ほんとうだったんですねー。」というではありませんか。実は、ネット情報でその事実を知ったようです。やれやれ、〇年ぶりに嘘つきから解放されました。

そしてその2。いまや絶大な支持を得ている「ナイキ」のシューズ。これ、実は日本で生まれた靴なんです。

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あるアメリカ人が日本に旅行に来日した際、素晴らしいデザインと機能性を持った競技シューズを靴屋で見つけ驚愕しました。それは、「オニツカタイガー(アシックス)」の靴だったのです。すぐさまアメリカに戻り靴メーカーBRS社がこの「オニツカタイガー」の靴を輸入販売することを決定しました。その後、「オニツカタイガー」の技術者をアメリカに派遣させ、オレゴン大学の人間工学を専門としていた陸上顧問の教授と技術開発をして「ナイキ」というブランドで新しい靴の販売を始めました。陸上顧問をしていた人脈を生かし、この教授は主力選手にこの靴を提供しました。そして、スポーツ界で噂は広がっていきます。そー、大きなスポーツ大会で上位の選手が皆ナイキの靴を履いていたのです。この噂はたちまちスポーツ業界に広がり、またたく間に人気の靴になってしまいました。

当初、この「ナイキ」の靴は日本の「朝日靴」で製造され、アメリカに輸出されていました。この「朝日靴(アサヒコーポレーション)」実は、あのタイヤのトップメーカーのブリジストンなのです。当時は共同開発した「オニツカタイガー」でもナイキの靴を販売していましたが、突如BRS社は「ナイキ」はBRS社の標章、ゆえに「オニツカタイガー」で販売し利益を得るのはけしからんと訴訟を起こされてしまいます。あまりにも理不尽でひどい話です。そしてついに「オニツカタイガー」は敗訴、多額の和解金を払ったようです。

こうして、ナイキは日本での製造から本国での製造とし、ナイキはアメリカの靴ということになってしまいました。実は、私はナイキが日本でまだあまり知られていない時から履いていました。アメリカに旅行に行った友達に買ってきてもらったのです。勿論、その時は外国製の靴としてファッション感覚で「コルテッツ」を履いていました。そして、この「コルテッツ」シリーズは色違いのお洒落な物が次々と発売され、ピークで10足ほど所有していた頃もありました。当初「なに、この変なマークのダサイ靴」なんてバカにしていた人がいました。その時は、この人何もしらないんだなー。なんて思っていましたが、ある日、その人はナイキの靴を履いていました。勿論、私は皆が履き始めればナイキは卒業です。唯一ゴルフシューズの1足となってしまいました。

私は今、ある靴をはいています。それは秘密。皆が履き始めたら紹介しようかなー。なんて、かなり意地悪だね。

結構舶来品と思っているもの。実は日本の技術が随分使われているんですよね。あのアポロの技術もほとんどが日本製だとか。有名な欧州車もボディーの金型は群馬の太田市で作られています。最近、欧州車って流線型の垢抜けたデザインになりましたよね。あれ、日本の金型技術の賜物なんですよ。

でも、残念なニュースが・・・。その世界的に有名な企業が、中国に買収されてしまいました。中国に日本は買われてしまうんでしようかね。⇒オギハラ

Yoshida_face そうそう、その「ナイキ」の靴なんですが、今中国で製造されているのはご承知の通りですが、その輸送業務をあのアメリカでソースを販売して大成功を収めた「ヨシダソース」の吉田さんが一手に引き受けているんですよね。専用のマイ空港と、マイカーゴジャンボ機ですから凄いですよね。

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2011年11月 2日 (水)

「国立科学博物館」開館記念日

1931年11月2日、東京上野に「国立科学博物館」が開館しました。

私の子供の時代から学生時代、そして自分の子供の時代まで何度か「国立科学博物館」には来館させてもらいました。最近の館のサイトなどを見ると、だいぶ改装されて綺麗になっているようです。

初めて見た「ゼロ戦」などは、当初屋外に置かれていて、痛みがひどかったのですが、現在はきれいにお色直しされて屋内展示になっているようですね。見るものすべてが目からウロコ物で、幼いながら色々と感ずるものが有ったような気がします。私の成長への影響のエッセンスがこの館にあったといっても過言ではない気がします。なにせ、小学校のときは科学誌を毎月買ってもらい、中学校が科学クラブ、高校が化学部でしたから。改めてまた行きたくなっちゃいました。

明日、11月3日の「文化の日」は、入場料が無料だそうですよ。

こちらのD51は、先日「東京国立博物館」に出掛けた際、通り道の「国立科学博物館」の前に鎮座しているこのD51を久々に撮影したものです。実は、25年程前にもこのD51を撮影していました。見比べてください。

今年のD51

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こちらが25年程前のD51です。

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館内も改装されているようですが、展示物も丁寧に整備保存されていて安心しました。 

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2011年11月 1日 (火)

本格焼酎の日/泡盛の日

毎日記念日の11月1日、今日は欲張って2つの記念日を紹介します。

1つ目は、「本格焼酎の日」です。

この日に、九州の焼酎蔵元の会議の席上で、11月1日ごろが新酒が飲める時期であることから「本格焼酎の日」と制定したそうです。何故、「本格」かというと、芋焼酎などの風味の良い乙種の焼酎が、甲類の焼酎と比べて「本格的な焼酎」であるため、あえて「本格」を付けたのだそうです。

我が家に有った九州は熊本の有名な蔵元「常楽酒造」の「芋屋長兵衛」を紹介します。九州に行った時に、見たことのない焼酎だったので購入したのですが、後でネットでお取り寄せできることが解り、少々がっかりしました。ラベルには、「本格芋焼酎」と赤文字でどうだとばかりに印刷されています。紅あずまの芋を黒糖仕込みした焼酎とのことです。まだ、封を切っていないので味は分かりません。今度のお正月にでもいただきます。

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2つ目は、「泡盛の日」です。

こちらも、泡盛がこの11月になると美味しい時期であることから、沖縄県の酒造組合が記念日として制定したのだそうです。

沖縄は、家族が行き来しているので、いろいろといただきましたが、ちょっと珍しい泡盛を紹介します。古酒の「くら」で有名な「ヘリオス酒造」の「黒糖梅酒 」です。沖縄の黒糖を使い、和歌山の最高級の梅といわれる南高梅を泡盛仕込みした梅酒だそうです。こちらも開封は、お正月かクリスマスかな。

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11月は、ワイン、日本酒、泡盛、焼酎とヌーボーの季節なんですね。クリスマス、忘年会、お正月とお酒が付物の集まりが目白押しになりますから、酒飲みにはたまらないですね。

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2011年10月26日 (水)

近代社会のスタート「東京オリンピック」と未来

1964年の10月10日、日本でそしてアジア圏では始めて、人類の最大の祭典であるオリンピックが東京で開催されました。

Vcm_s_kf_repr_250x461_4 日本にとっては、戦後の世界復帰と、先進国に仲間入りをするための重要な意味のある大会でした。これは、日本の全国民挙げての大イベントとして位置付けられ、皆が開催に向けて大変な情熱を傾けていた記憶があります。この国をあげての祭典はあっという間の出来事で、2週間後の24日に大成功のうちに惜しまれながら閉幕しました。私は、小さいながらこの大イベントの熱狂をひしひしと感じ、期間中は興奮して毎日を過ごした記憶があります。ゆえに、閉幕の時の寂しさはひとしおで、今もこの時の記憶を鮮烈に覚えています。

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この東京オリンピックに標準を合わせ、新幹線の開通や高速道路の整備などなど、一気に新時代を開花させました。そして、今問題になっている「原子力発電」も前年の1963年の今日、茨城県の東海村の試験炉により成功しました。

阪神淡路大震災における高速道路の崩壊、そして先般の東北沖大震災における福島原発の事故など、最先端の文明も自然の力にはなすすべもありません。私たちは、攻めの時代から守りの時代へと移行していかなくてはなりません。

日本各地に存在する「原子力発電所」。今後も稼働を続ける限り、自然の脅威だけでなく、外敵からも守っていかなくてはなりません。色々な意味で非常にリスクを抱えた国になっていることは事実なのです。

ゆえに、今問題になっている安全保障と沖縄の基地問題。決定者は、良くも悪くも多方面に非常に影響を与えるキーパーソンになってしまいました。

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各種シートの中から、金メダルを取った「東洋の魔女」たちのバレーと、軽井沢町が会場だった乗馬を選びました。

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2011年10月 9日 (日)

世界郵便デー

今日は、「世界郵便デー」。世界中を一つの郵便地域にしようということで制定されたそうです。

今やメールや携帯電話で連絡を簡単に出来る時代になってしまって、手紙のやり取りなどは縁遠くなってしまいましたね。年賀状が辛うじて慣習として残ってますが、ややもするとこれもメールで済ましてしまう人たちも増えているようです。

そこで、今日紹介するものは、旅先から出した自分宛の記念の手紙です。

旅先にちなんだデザイン入りの封筒をあらかじめ用意しておきます。そこに旅先にちなんだ切手を選んで貼ります。そして、旅行先の郵便局で「風景印」の押印をお願いし、発送してもらいます。

これで、オリジナルの日付入り記念品の出来上がりです。丁度先日、石垣島に行った時の手紙が届いていますのでご覧ください。

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風景印は、全国の主要郵便局にそれぞれオリジナルのデザイン印が用意してあります。大きい郵便局は複数違ったデザインを用意している所もありますよ。通常ご覧のような普段消印に使われる黒色ではなく、茶色のスタンプインクを使用し、切手のデザインを損なわないように縁ぎりぎりに押してくれます。今回の切手は、「九州・沖縄サミット記念」の切手で、旅行した時の日付が押されるので、いい記念(記録)になります。

このデザイン印の郵便局は、石垣市の八重山郵便局のもので、切手収集の趣味のある人には一目置かれている有名な郵便局です。琉球郵便から、郵政省の管轄になった折、郵便局のスタンプ印が間に合わず、郵便局長の印が代用で使用されました。その印を押されたエンタイヤ(スタンプの押された配達済郵便物)は、何十万もする値打ちの物もあります。

下の封筒は、沖縄本島のポストに投函したものです。糸満の消印がされていました。100円分の切手が貼ってあるので、加貼りといわれる状態ですが、それも一味。

皆さんも記念に、旅行先から「風景印」を押した自分宛の手紙を出してみませんか?

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2011年8月 6日 (土)

広島に原爆が投下された日

1945年8月6日、人類史上初の原子核爆弾が使用されてしまい、一瞬にして10万人以上の人が亡くなってしまいました。

原爆を積み、サイパンの隣の島テニアン島から飛び立った戦略爆撃機B29の愛称は、「エノラ・ゲイ」。これは、攻撃作戦を部隊に命令した陸軍大佐の母親の名前だそうです。歴史史上まれな大量虐殺をするこの飛行機の名前を母親の名前にしてしまいました。それほどこの攻撃を名誉なことと思っていたのでしょうか。なんと、攻撃を成功させた関係者たちは、夜遅くまで祝杯をあげたということです。戦争当事者たちの考えや行動は、狂気の沙汰と思わずにはいられません。

当日、爆撃機B29に搭乗していた乗組員の内、原子爆弾を投下することを知っていたのは数名で、ほとんどの乗組員は目標の広島が近づいたころ、機内放送で知らされたそうです。後に、乗組員のうちの何人かはことの重大さに精神異常をきたした人がいたと言われています。

戦争中、私の父親は日本(東京)に飛来するこのB29を迎え撃つ高射砲部隊に所属していました。そのため、戦争経験者からの貴重な話を随分聞くことができました。一般的に言われている戦争の話とはニュアンスの違う本当の話を聞くことができたと思っています。

今だから公表できる話ですが、戦争途中にはすでにこの戦争は絶対勝てないと確信していたそうです。なぜなら、この高射砲部隊の弾は、B29にかすりもしなかったそうです。高射砲の射程距離と、B29の飛行高度がかけ離れていて、悠々と部隊上空を通過し、何度も日本への空爆を可能にしていたというのです。応戦する日本の飛行機も、歯が立たず、B29に近づくとみんな簡単に撃ち落とさてしまい、中には、燃え出した飛行機の炎を風を切って消そうと急降下、急上昇を繰り返し、最後には墜落して行った飛行機の最後の断末魔の様子を忘れることができないそうです。この高射砲部隊は、真っ先に攻撃される標的となっていて、隣の高射砲の壕に被弾した時は、自分は一瞬死んだと思ったそうです。その壕の中の隊員は、全員戦死してしまったそうです。下から見える何十機ものB29の銀色のぎらぎらした胴体の輝きは忘れることのできない光景だと言っていました。

奇しくも、父親は、軍曹に昇格するはずだった日に終戦となったそうです。

続きは、終戦記念日に・・・。

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2011年8月 5日 (金)

浅間山 天明の大噴火

1783年(天明3年)8月5日は、浅間山が大噴火した日です。記憶に新しいところでは、1991年の雲仙岳の噴火がありますね。雲仙岳では火砕流により、多数の犠牲者を出しましたが、1783年の浅間山でも、大規模な火砕流が発生し、裾にあった嬬恋村の鎌原部落が飲み込まれて全滅し、多数の犠牲者がでました。

火砕流が発生し、村人は山の上の観音堂へ逃げるように駆け上がりましたが、人口の15%ほどの93人しか助かりませんでした。先日の東北の津波を彷彿させますね。

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現在の観音堂です。観音堂への長い階段は熱泥流で埋もれてしまい、15段ほどを残すのみとなっています。1979年に現存する15段の下を発掘調査したところ、数段下より女性の白骨遺体が折り重なるように2体発見されました。下になっている白骨遺体は年齢が若く、上に覆いかぶさるようになっていた白骨遺体の方が年配だったそうです。お母さんか、お婆さんをおぶって逃げる途中だったのでしょうか、生死を分ける15段の僅か下から発見されています。階段は全部で50段ほどあったとされています。現在は殆ど埋め戻され、そこに、赤い太鼓橋が掛けられています。

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             隣接して、犠牲者の供養観音があります。

観音さまの頭の左上に写っている建物が嬬恋村郷土資料館です。先日、イタリアのベスビオ火山の噴火で犠牲になった古代都市遺跡ポンペイの住民の人型が日本のポンペイといわれる嬬恋村に寄贈され、この資料館に展示されています。   

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