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2016年6月

2016年6月30日 (木)

真田氏ゆかりの寺 「信濃国分寺」/上田市

小諸城で本陣を構えた徳川秀忠の4万近くの大軍勢は、上田城の2000程の兵と籠る真田昌幸に勝ち目はあるまいと小諸城と上田城の中ほどに位置する「信濃国分寺」で真田昌幸に降伏するよう話し合いの場を設けました。

こちにが信濃国分寺の山門(仁王門)です。

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こちらが本堂です。

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側面の様子です。かなり大きな建物です。

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しかし、この建物は1800年代の建物なので、この建物内で会談が行われたということはありません。兵火にあう以前の建物ということになると可能性はありますね。

こちらの三重の塔は1200年ころの建物なので可能性はあります。

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上田城から参場した昌幸は、本田忠政に同行した息子の真田信之と会うこととなります。

昌幸はあっさりと「我が城に勝ち目はない故、城を明け渡す用意をしたい。暫しご猶予をいただきたい。」と申しでました。

それを聞き入れた徳川秀忠は、しばし待つことになりますが数日経過しても返事が無いことにシビレを切らし、上田城に伝令を向かわせました。

返事を持ち帰った内容は「時間をもらい、おかげで戦闘態勢を整えることができた。さー攻められるがよい。」とのとんでもない返事でした。

「真田昌幸」かなりの食わせ者。やりますねー。

天下分け目の「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「第二次上田合戦」の始まりです。

激怒した徳川秀忠は、上田城を西に見渡せる2㎞ほど離れた「染谷(屋)台地」へと兵を進め戦いが始まりました。

結果、上田城を落とせないばかりか手間取って「関ヶ原の戦い」にも遅れて参戦できなかつたという歴史に残る大失態をおかしてしまうことになります。

真田 恐るべし。

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2016年6月29日 (水)

真田氏ゆかりの城 / 小諸城

第二次上田合戦の折、徳川軍が駐留したところが小諸城です。

徳川秀忠の4万近い大精鋭部隊は、中山道から小諸城に入ると、そこに本陣を構え上田城への戦闘態勢を整えました。

こちらは、小諸城の表玄関にあたる大手門です。国の重要文化財となっています。

入口の柱は60cmほどの太さがありました。

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門の右隣の櫓(やぐら)はどんな形をしていたんでしょうね。石積みのみ残っています。

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内側から見た入口の扉です。

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こちらは三の門です。先ほどの大手門との間は「しなの鉄道」(旧信越線)で寸断され、地下道で繋がっています。こちらも国の重要文化財となっています。

現在防災施設の設置工事中となっているため、以前撮影した写真を引っ張り出しました。

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内側からの様子です。.Img_8943
門を通過し、振り返った様子です。巨大な石積みに圧倒されます。人との大きさを比べると対比出来ると思います。

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進行方向は、城郭縄張りの定石であるクランク状の「喰違虎口」になっています。

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喰違虎口」を抜けると第二次上田合戦で徳川秀忠が本陣を敷いた二の丸が現れます。

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小諸城跡は「懐古園」という城址公園として整備され、あちこちに石積みを見ることが出来ます。(こちらも以前の写真です。)

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次回は、真田昌幸に対して徳川軍の本多忠政が上田城を明け渡すようにと話し合いの場となった信濃国分寺を紹介します。

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2016年6月25日 (土)

真田氏ゆかりの建物 上田藩主居館跡/上田城三の丸跡

関ヶ原の戦いの後、徳川により上田城は取り壊しとなり、真田昌幸と信繁は九度山に流され、徳川方に付いていた信之は上田藩主として残ることになり上田城の三の丸跡地に居館を造りました。

信之は、沼田、江戸、松代を行き来し、上田に帰っての滞在時はこの居館を利用したということです。

こちらが居館跡の門です。

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現在、上田高校の正門となっており屋敷は無くなってしまいましたが、跡地がそのまま高校の敷地として使われています。

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上田城の三の丸の堀がそのまま残り、面影をのこしています。

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2016年6月22日 (水)

真田氏ゆかりの地 潜龍院跡/東吾妻町

1582年、武田勝頼は織田の勢力に押され、さらに家臣たちの裏切りなどもそれに拍車を掛け、ついには天目山(山梨県田野村)で自刃し、名門武田家は絶えてしまいます。

武田信玄の家臣であった真田昌幸は、武田勝頼を群馬県の岩櫃山の裾に用意した御殿に向かい入れようとしましたが、ついにたどり着くことができませんでした。

こちらは昌幸が用意した御殿の寅口跡あたりです。

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真田昌幸は信玄への忠誠の証として勝頼の御殿を3日で築造して用意したという言い伝えがあります。上野の地で復活を祈っていたので、さぞ落胆したことでしょうね。勝頼が上野の地に腰を据えたら歴史が少し変わったかもしれませんね。

この御殿は、「古谷御殿」といわれていましたが、主(勝頼)が使わなくなってしまった建物は後に真田氏一族の山伏の寺(忍者寺ともいわれています。)として使われるようになり、その寺名を潜龍院としたため、現在の跡地もその名が使われています。

現在は石垣とその横の広大な平地の跡地のみとなっています。

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上の写真の奥側からの見たようすです。平地の端(写真の背中側)は土塁があるそうです。

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そして、この御殿の北側にはかの有名な岩櫃山がそそり立っています。

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潜龍院は現在、原町駅近くの顕徳寺の護摩堂として移築されています。

そちらは改めて紹介します。

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2016年6月21日 (火)

真田氏ゆかりの神社 八幡神社/上田市紺屋町

上田城の鬼門の方角にはもう一つの鬼門除けの神社があります。

この「八幡神社」は、真田昌之が上田城築城の折に鎮護のために建立したということです。

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当初、この神社は真田氏の先祖といわれている海野氏が、京都の石清水八幡宮から分社して海野氏の領地である東部町(現 東御市)に建立した神社でしたが、昌幸が上田城を造る時の守り神としてさらに上田市紺屋町に分社されたものです。

現在、東御市の神社は滋野神社と改名されています。

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拝殿の後ろに繋がっている本殿です。

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更に後ろには小さな祠が並んでいました。

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関ヶ原の戦いの後は上田城が徳川軍によって取り壊され、信之が松代藩に移る時にこの八幡神社も松代にある祝神社の境内に八幡社として分社しました。

信心深い真田氏、自分の行く先々に側神として祀ったんですね。

上田の八幡神社の一番後ろにかわいい石の祠が寄り添っていました。

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2016年6月20日 (月)

真田氏ゆかりの寺 月宮山「天桂寺」/沼田市

沼田城の東 5~600mの所に真田氏の菩提寺である月宮山「天桂寺」があります。

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このお寺は、初代沼田藩主の真田信之と清音院殿(真田丸ではこう)との間に長男として生まれた真田信吉の菩提寺です。

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真田信之が上田に移った後は2代目城主として城下の水路や諸々の整備を実施し、功績を残したと言われています。その子供の真田伊賀守は、真田街道の大笹関所を設置し、江戸時代の街道を仕切りました。

真田信吉は、病気の信之にかわって大阪冬夏の陣にも参戦しており、敗戦時に命からがら生き残ったものの40歳という若さで父信之より先に亡くなっています。

折角なので、真田信吉のお墓に手を合わせてきました。

宝篋印塔の中央には六文銭が刻まれていました。これは、真田氏の数々のお墓でも珍しいものです。

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このお寺には通称「味噌なめ地蔵」という石像があり、昔から自分の病んでいる場所に味噌を塗るとたちまち治るという言い伝えがあります。

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顔中味噌だらけで息ができないのでは・・・

この石像、実は閻魔(えんま)様と奪衣婆(だつえば)で、奪衣婆は三途の川で渡り賃の六文銭を持たずにやってきたものは衣服をはぎとり、川に投げ込むという老婆の鬼だといわれています。さすが六文銭の真田氏の菩提寺だけのことはありますね。かなり古い由緒ある石仏だそうです。

沼田城からこのお寺の本堂までが一直線に繋がっていることや、寺の回りを水路で囲んでいるなど当時このお寺がどういう位置付けだったのか興味津々です。

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そうそう、正覚寺も城から一直線で繋がってますし、ものすごい見通しの良い場所なので見晴らし台として使い、万が一の時は馬を城までとばして・・・なんて勝手に想像してしまいます。

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2016年6月19日 (日)

真田氏ゆかりの施設 「保命水」/上田柳町

以前、上田城下に今だ江戸の風情を残す「柳町通り」の「岡崎酒造」を紹介しましたが、この通りには「保命水」と称する大変古い水道施設があります。

この水道施設は、これまた以前紹介した「海禅寺」の境内に湧き出た水を明治の初期に木管で「柳町」まで引水したものです。

こちらが、「海禅寺」の手水舎で、太郎山の水脈による湧水と言われています。

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真田昌幸がこの寺を建立してからはこの境内の湧水が江戸時代の近隣住民の貴重な生活用水だったようです。

こちらが現在の国道18号を横断して柳町まで引水された水場の通称「保命水」です。

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上田市に水道施設が完備されるまで市民の水汲み場として重宝されたといいます。

正に「命を保つための水」ですね。

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真田昌幸が整備した水利が明治の時代まで上田市民のために利用されていたというのは素晴らしいことですね。

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2016年6月15日 (水)

真田氏ゆかりの寺 大智山「海禅寺」/上田市

真田昌幸は、上田城の築城時に鬼門の方角にある堀の土塁を切り落とし、さらに城外には鬼門除けの寺と神社を配しました。

寺は今回の「海善寺」、神社はかの「山家神社」です。真田氏は数えきれないほどの社寺を建立しています。家紋までが三途の川の渡り賃の六文銭。戦乱の中、外様大名が生き抜くために英知を絞り、そして神仏の力をも味方にしたかったのでしょうね。

さて、こちらが鬼門の方角に造られた海禅寺の入口です。珍しい石の冠木門(かぶきもん)です。

長い参道が奥へと続いています。

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山門の手前に左右3体づつに分かれた六地蔵が鎮座しています。

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山門は城の入口のごとく堅牢な扉でした。

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本堂は、一部改装工事中でした。唐屋根がアクセントとなっています。

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お決まりの六文銭があちこちに配されています。

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帰り道、山門を角度を変えて撮影。

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真田ゆかりの社寺はまだまだ次々と登場します。

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2016年6月14日 (火)

真田の酒 / ⑤岩櫃城

以前、焼酎の「岩櫃城」を紹介しましたが、今回は日本酒版の「岩櫃城」です。

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この「岩櫃城」は、醸造アルコールが添加されているせいかきつさが口に残りました。(あくまで個人的な感覚です。)

モンドセレクション連続受賞蔵の「浅間酒造」の日本酒だけに少し残念。あの銘酒「秘幻」の「岩櫃城」版を出してもらったらすぐに購入するんですけどね。

だって、戦国の世を左右した天下の「岩櫃城」ですからね。

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お土産用といってしまえばそれまでですが、全国の日本酒を取り寄せて呑めるようになった昨今。日本酒ファンは口が肥えています。

美味しい日本酒が沢山有る「浅間酒造」の今後の心意気に期待です。

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2016年6月13日 (月)

真田氏ゆかりの城 名胡桃城/みなかみ町

歴史が大きく変わる事件はいくつかありますが、「名胡桃城事件」もその一つでしょう。

豊臣秀吉の裁定により沼田城は北条氏に、「名胡桃城」は辛うじて真田の領地として残ったものの、北条は名胡桃城主の鈴木重則に上田城に至急向かうようにとの偽の手紙を送りつけ、重則の留守の間に「名胡桃城」を乗っ取ってしまった。

重則は、道中の岩櫃城に着いたときに策略に気付き至急舞い戻ったものの既に時遅し、「名胡桃城」は北条氏が占拠した後だったという。

重則は責任を痛感し、正覚寺(現在、小松姫のお墓のあるお寺)の境内で【立ち腹】という主君に一番忠義を尽くす立ったままの切腹で果てたといいます。

それを知った豊臣秀吉は無法者の北条に激怒し、北条つぶしへと突き進んでいきます。20万余もの軍勢で小田原に立ち向かった秀吉の気持ちが尋常ではなかったと想像します。

その歴史的な「名胡桃城跡」を訪れてみました。

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近年、発掘調査もひと段落して綺麗に整備されていました。

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三方が絶壁の山城独特の地形です。

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本丸跡に大きな石碑が建っていました。.

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沼田城方面の郭の回りは絶壁です。

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現場の案内図が当時の様子を想像させます。

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右前方は沼田城。沼田城と名胡桃城は互いに城下の様子を監視していたようです。

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長手に約200m以上もの連郭式という方式の山城だったのだそうです。残念ながら国道17号線により分断されています。

真田の心意気と凄さをこの地でも感じることが出来ました。

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2016年6月12日 (日)

真田氏ゆかりの地 角間渓谷・岩屋観音

山家神社の東側、群馬県との県境近くの山深い所に「角間渓谷」があります。

この山の反対側は群馬県の鹿沢温泉ですが、そこが真田の発祥の地だとの説もあるようです。

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渓谷のあちこちには巨大な奇岩が立ち並び、角間は真田忍者の修行の場だったといわれています。忍者とは真田十勇士などの物語の延長で勝手に後の人が言っているだけでなのですが、まったくの作り話でもなく、それぞれ真田幸村(信繁)に仕えた実在の人物を基にアレンジしたのだともいわれています。

こちらの大岩は、「猿飛岩」と名付けられています。

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真田の先祖は馬の牧場をなりわいとしていたそうですが、渓谷の険しい山々で体を鍛えて武術を学び、馬を操り乗り回し、その延長が戦国の世で名を馳せた真田一族だというのも納得のいく話です。

角間渓谷には「岩屋観音」という奇岩の中に造られたお堂があるので訪れてみました。

お堂まではなんと222段の直登階段が行く手をはばみます。

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足を踏み外したら大変。慎重に・・・。

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やっと登り切った先にお堂が見えてきました。

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その昔、この奇岩の洞窟には鬼が住んでいて坂上田村麻呂が悪戦苦闘の末、真田町傍陽にある金縄山(きんじょうざん)実相院の馬頭観音に祈願し、ようやく鬼を退治したという伝説がのこっています。

鬼を鉄の鎖で縛りあげたため、寺の山号が「金縄山」と付けられたといわれています。

実際の所は、縄文時代の住居跡なのだそうですが、それではロマンが無くなっちゃいますね。

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祠に手を合わせ元来た道を戻りますが、階段を上から見るとその凄さを再認識してしまいます。

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2016年6月 5日 (日)

真田の酒 / ④真田初陣

「真田初陣」・・・これは・・・

なんとも、なにかそそられる酒ではないですか。

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真っ黒なボトルに、「赤備え」の深紅のタグ。そして初だけは白抜き。一目見て気にならないわけがない。

タグを外してまたビックリ! 真っ黒な瓶に真っ黒なラベル。

そして中央には金色の鎌穂槍(十文字槍)がクロスしているが、実に銘柄の文字が小さい。

日本酒は一般的に筆字の太文字の品名がドシンと中央に鎮座している。

しかし、この酒はそんなセオリーなど無視。このデザインを手掛けた人は相当の真田通とみました。

真田信繁は鎌穂槍の達人だったとか。それを中央に配することによりこれは「真田の酒だ」と立派に主張しています。

一目見て「真田丸」のテーマとともに真田の騎馬隊の大軍勢が突進していくシーンが目に浮かんでしまいました。

と、前置きが長くなりましたが、そのお味は・・・

当初、このインパクトの酒。さぞいきなりグッとくる辛口と想像していましたが、口に含んだ瞬間品の良い甘さが口に広がりました。が、間髪言わせず程よい辛味とともに色々な味わいが後から付いてきました。

最近の中では私好みのいい酒を見つけたとついニンマリしてしまいました。

これは諏訪市の「舞姫」で醸造された純米吟醸酒です。

見て良し。想像して良し。口にして良し。のお酒でした。

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2016年6月 3日 (金)

上田城下の酒蔵 / 岡崎酒造

上田城下には旧北国街道の江戸の町並みの名残りを今なお残す「柳町」通りがあります。

この「柳町」には、「岡崎酒造」という酒蔵が江戸初期から今に伝統を引き継いでいます。

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一歩足を踏み込むと見事な天井梁が平成の今から江戸へと時代をワープさせてくれます。

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その昔、店頭に掲げていたであろう年期の入った古い看板が保存されていました。

古くから店の正に「看板商品」である「亀齢(きれい)」の看板です。

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今回こちらで購入した日本酒「上田城」は、実は中身は「亀齢」で、お土産用に造ったラベルなのでしょうね。

そのお味は、「真田の酒」で改めて紹介します。

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酒樽で造った部屋が店内に展示されていました。なごみますね。

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そして、店舗の裏手の部屋にはこれまた古い雛人形が飾ってありました。この酒蔵の杜氏さんはたしか女性だったと思いますが・・・。

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伝統的な酒蔵や酒屋の店頭ののれんが地面まで長く張ってあるのは店内の酒を外光から保護するためで、その名も「日除け暖簾」というのだそうですが、このお店にもそののれんが張ってありました。(2枚目の写真が分かりやすいです。)

店内から外を望みます。明るそうですが、実際は薄暗く、感度を上げて撮影しました。

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こんな素敵なお店のある「柳町通り」。その街並みの様子は改めて紹介します。

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