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2016年3月

2016年3月31日 (木)

宮城県「松島」の今は

3月中旬に1年ぶりとなった東北宮城に二日ほど行ってきました。

東北大震災から5年。被災地の現状はどう変わったのか仙台市郊外の「松島」まで行ってみました。

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海の方だけに視点を向けると今までと変わりのない景色に見えますが、一端陸地へと目を転じるとまだまだ当時の爪痕は色濃く残っていて工事の真っ最中でした。

海岸線は強固な新しい堤防が繋がっていました。

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向かいの「雄島」まで渡ってみることにしました。駐車場から繋がっている道はまだ通行止めとなっているため、迂回路を通って行かなくてはなりません。

迂回路の先の港は震災を想像できない長閑な風景でホッとしました。

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港から雄島への方向へ歩を進めると切り通しの道に繋がっていました。予想外の道にちょっとビックリ。

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切り通しを超えると直ぐに「雄島」が見えてきました。

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渡月橋を渡り島へ向かいます。

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雄島はある僧侶が10年以上もの間、島から1歩も出ずに修行した島で有名ですね。その偉業を称えて贈られた千本もの松を島中に植え、これが「松島」の起源と言われています。

島内の岩に何十も掘られた洞窟の仏像が霊場の趣をかもしだしていました。とても霊験あらたかな島ですね。

ブログでどうぞと簡単に紹介できない雰囲気を感じたので関心のある方は是非訪れてみてください。

東北にはこれからも時々お邪魔させていただきます。

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2016年3月28日 (月)

上田城ってどんな城?

大河ドラマの「真田丸」もいよいよ上田城が舞台のストーリーとなってきましたね。

ということで、以前撮影した上田城の写真をアップしました。当時の雰囲気を感じることが出来るでしょうか。

まずは最近色々な場面で紹介されている上田城玄関口の「東寅口櫓門」です。大きな城門は寅口と言われていますが、干支の方位である寅の方向ではないんですね。

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「東寅口櫓門」は、地図上は確かに東方向なのですが、干支の方位である東北東ではありませんでした。色々調べたら、干支の方位ではなく「寅の口」すなわち非常に危険な口ということのようです。合戦などの重要な局面のことも寅口というそうです。この門では、門の中まで攻め込ませて、回り中から一斉攻撃を仕掛けたという戦略は聞いたことがるのですが・・・。

色々調べてみたら面白いことが分かりました。寅年の武将が以下の通りでした。

 徳川家康(1542年)・真田信之(1566年)・上杉謙信(1530年)

そして東方向を表す干支の卯年生まれはなんと。

 真田信繁(1567年)

これは偶然なのか、上田合戦で戦闘をかわした武将たちの干支と局面を迎えたこの場所の名前が因縁深いですね。まるで上田合戦を見据えた命名のようです。「掛かってこい家康」ってとこですかね。(あくまで個人の見解ですが・・・)

門の向かって右には「真田石」といわれる城内一の大きさの石垣石があります。上田城の石は、城から北へ3~4キロの太郎山から切り出したと言われています。

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さて、今回は以前とは違う南方向から上田城を見てみましょう。

こちらは、南側から見た上田城です。中央が東櫓、そして左奥が西櫓です。

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西櫓の石積みです。自然の岩と石積みをうまく利用しています。

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こちらが東櫓です。ここを攻撃をかわして登りきるのは不可能と思わせる構えです。

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しかし、真田はこの石垣の下まで容易く来られるようにしていました。

こちらは、西櫓から見た上の写真の下側の部分です。

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現在、芝の広場となっているこの場所は当時千曲川から水を引き入れた堀となっていました。しかし、上田合戦の時は水を抜いて空堀にしておいたのです。これが、昌幸の戦略の凄さで、この空堀に難なく何百という軍勢が攻め込んで集まった時に上流の川の堰を切って洪水を起し、一網打尽にその何百の軍勢を溺死させたのだそうです。

この堀を尼ヶ淵といい、上田城は別名「尼ヶ淵城」ともいわれました。

古地図を見ると、城の城下に寺を配したり、入り組んだ道にしてみたり、川を掘りのように2重、3重に配したり町全体が戦いに備えた造りとなっているように感じます。

北西側は大きなため池を造り、その池に城下の雨水が流れ込むように設計されていたようです。現在、ため池部分は公園敷地内の野球場と陸上競技場となっているので、その大きさは想像できると思います。

今でも池に流れ込む石樋が残っています。丁度、人が潜れるような大きな石樋なので、他の目的があったのかと想像が膨らんでしまいます。

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というのも、西櫓の裾に有る井戸も城下のある屋敷に繋がっている抜け道と言われています。

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井戸は柵に覆われ中まで覗き見ることができませんでした。

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こちらは、北側の石積みですが、建物の再建はされていません。

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上田城は本丸の無い城構えだったとされる説が有りますが、敷地の中央が高くなっており、近年の発掘で金箔塗の屋根瓦の破片が出てきたとのことで、古文書の本丸の一部の仕様と一致することからその存在が注目されています。

私の予想では、築城開始が1583年、二年後には家康が攻め込んでいますので本丸までの工事は不可能と考えます。そして徳川からの城破壊の命が下ったのが1600年なので、この間は櫓だけの「真田丸」のような構えだったのではないかと思っています。

1626年になってから復興となっているので、それ以降に本丸が造られたと考えるのが自然ではないでしょうか。

いろいろな資料から歴史を自分なりに紐解いていくのは楽しいですね。さー、大河「真田丸」の上田合戦はどのように描かれるのでしょうか。

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2016年3月25日 (金)

大谷石の採掘資料館に潜入

板東三十三観音霊場巡りで「大谷寺」に行った折、大谷石の採掘場を見学できる資料館があるということで訪れてみました。

資料館の入口建物から見学コースへと足を進めると採掘場へと繋がる階段が奥深く地底へと繋がっていました。想像以上の展開に心が躍ります。まるで古代遺跡の探検のようです。

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暫く進むと目の前に大空間が広がりました。どこまで続いているのだろう。期待と焦り。

坑内には色とりどりの明りが灯され、不思議な地下空間を演出していました。

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上の写真の中ほどまで降り、さっき写真を撮った所を振り返ってみました。階段手摺りの一番高い所から上の写真を撮りました。

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無機質な石壁の大空間にモニュメントや照明が施され芸術空間になっていました。

採掘した時のカッターの切り口も芸術作品のようです。

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なんと、石を切り取ったステージまでありました。この地下の大空間で演奏された音はどんな響きとなるのでしょうか。自然空間のエコーの効いた演奏や歌声が聴いてみたくなりました。

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そして、ギャラリーもありました。なかなか大谷資料館は芸術してますねー。

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石壁に造られた窓から隣を覗くと、隣の空間ではガイドさんが団体さんご一行を引き連れて説明をされていました。

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ぐるっと洞内を巡り地上にもどってきました。あーやっぱり地上は落ち着くー。
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話には聞いていた大谷石の砕石場。経験のない未知の世界を知ることができました。

日本全国、知らない所ばかり。見聞を広める有意義さをあらためて感じる一日だったのでした。

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2016年3月24日 (木)

坂東三十三観音霊場/第19番 天開山 大谷寺(大谷観音)

3月の初めに久しく訪れていなかった「坂東三十三観音霊場」巡りをしてきました。場所は栃木県宇都宮市の大屋石で有名な大谷町です。

訪れたお寺は、坂東三十三観音霊場 第19番の天開山大谷寺です。

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このお寺は、本堂の外陣が人工の建築物、内陣が自然石の山という変わった造りとなっています。

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朱色の山門を抜けると奇岩に呑みこまれるようにお堂が建っていました。

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伝説ではその昔、この奇岩の山には毒蛇が住んでいて人々を苦しませていたのだそうですが、弘法大師が秘法を使って蛇を退治し、その後蛇は白蛇になって弁財天にお仕えする身となったのだそうです。

後にこの周辺は信仰の山となり現在に至っているとのことですが、内陣の岩肌に掘られた10体ほどの大きな石仏は神秘的なオーラをはなっていました。日本最古の石仏とされ、国の特別重要文化財となっていて、堂内は撮影禁止となっていますので紹介できないのが残念です。

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参拝を済ませ、御朱印帳を忘れてきてしまったことに気付きました。こちらのお寺で購入した御朱印帳に書いていただきましたが、「坂東三十三観音霊場」専用の御朱印帳が有るので、改めていただくことにことにします。もう一度出直してきなさいということですね。

この大谷寺の前には「大谷平和観音」という27mほどの巨大仏があり、第二次世界大戦の戦没者の慰霊と、前記「大谷寺」の前立本尊としての役割もしているとのことでした。

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一帯が岩だらけの地域で、大屋石の採掘で有名ですが、その採掘現場を見学できる資料館が近くにあるので見学してきました。その様子は次回で・・・。

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2016年3月23日 (水)

真田氏ゆかりの寺 真田山「長国寺」②

前回は本堂の紹介でしたが、今回は真田信之のお墓を紹介します。

この真田山「長国寺」は、真田信之建立の菩提寺ということで、信之以後十代の墓地が本堂裏手にあります。

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お墓の前には「御霊屋」という一般の家庭に例えると仏壇にあたる建物がありました。

「御霊屋」とお墓は柵に囲まれていて鍵も掛けられているため、普段は中に立ち入ることが出来ないのですが、今回特別にお寺の方に案内をしていただきました。

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入口の先には真田信之の「御霊屋」が鎮座しています。

国指定重要文化財だけのことはあり、豪華絢爛です。住吉大社のような神社様式の建物の装飾は唐破風の上に2羽の鶴が戯れていて、信之と小松姫かな、なんて勝手に想像してしまいした。

その鶴を含め、建物の彫物は名工の左甚五郎の作と聞き、びっくり。そして、堂内の天井絵は狩野探幽の作と聞き、さらに驚かされました。

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右隣には四代真田信弘の「御霊屋」が有りましたが、信之に比べるとこじんまりとしています。江戸期は、幕府からの厳しい締め付けにあった全国の外様大名は厳しい財政状態だったのであろうと想像できました。真田家も善光寺の再建などの大きな仕事をいろいろと課せられたとのことです。

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この真田信弘の「御霊屋」の裏手が真田家の墓地となっていました。歴代のお墓がずらりと並んでいます。

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そして、その一番奥に信之のお墓がありました。お墓の前には鳥居があり、やはり子孫は信之を神と崇めていたんだろうと想像できます。

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信之公の墓前で手を合わせ、「長国寺」を後にしました。

快く拝観させていただき、「長国寺」の関係者に感謝いたします。

※尚、詳しくは「真田丸」の放送あとがき映像で後日ご覧いただけます。

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2016年3月22日 (火)

真田氏ゆかりの寺 真田山「長国寺」①

今回の真田氏ゆかりの寺は、上田市ではなく松代市の真田山(しんでんざん)「長国寺」(ちょうこくじ)です。

「長国寺」は、松代城の東方600mほどに位置する松代城の真田初代城主であった真田信之が菩提寺として建立したお寺です。

以前紹介した上田市真田町の「真田山長谷寺」 は、真田家の菩提寺ですが、上田藩だった真田信之が松代藩移封に伴い真田山長国寺として移転したお寺だそうです。

山門の先には本堂が見えました。

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山門の横に目をやると「禁葷酒」という石碑がドンと建っていました。

このお寺は、曹洞宗の禅寺のため、匂いのキツイ酒や葷(ネギ、ラッキョウ、ニンニク、アサツキ、ニラなど)は修行道場で集中を欠く要因となるため、そのような物を口にした人は入場お断りという意味だそうです。

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山門を潜ると、本堂の手前にもう一つ山門が在ったであろう基礎石の痕跡がありました。このお寺は、明治初期に大火に見舞われたということなので、その時に消失してしまったのでしょうか。

本堂の右手の建物が、修行場の庫院だそうです。

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本堂のてっぺんには立派なしゃちほこが乗っていました。

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なんでも松代城が取り壊される時に天守から外し、乗せたとのことですが、本堂は一度消失しているため、その当時の物かどうか確認できませんでした。

真田のお寺だ!と言わんばかりの大きな六文銭としゃちほこが威厳を放っていました。

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境内には綺麗な紅梅・白梅が咲き始め、松代の真田統治300年の伝統に正しく華を添えているように見えました。

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松代城は、真田統治として明治維新まで続いたため、初代の真田信之から以後10代の真田家のお墓がこのお寺にあります。墓所の紹介はその②で紹介します

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2016年3月17日 (木)

真田氏ゆかりの寺 天照山「大輪寺」

今回の真田氏ゆかりの寺は、上田城の鬼門である北東方向の約1Kmに建立された「天照山・大輪寺」です。

大輪寺は、上田城築城時に城主真田昌幸の妻である山手殿(真田丸では薫)の発願で建立されたお寺で、上田城から5Kmほど鬼門の方向にある砥石城の裾にあった寺を現在の場所に移築したものです。

そんな縁があり、このお寺には山手殿のお墓が有ることでも有名です。

中門の前にはお決まりの六地蔵が鎮座していました。

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中門を潜ると立派な山門が見えてきます。楼門形式の建物で、回廊の前に堀を造って戦(いくさ)の際は敵の侵入を妨げ、応戦出来る構えとなっています。寺の横は川になっています。

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このように、大阪城の前に真田丸を構えて敵の侵入を阻んだ真田の戦略がこの上田城の回りに点在させた寺の構えからもうかがい知れるような城下の造りになるほどとうなずけます。

山門に登って、上からの眺めを見てみたいですね。見張りの役目もしたのでしょうね。

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山門を潜ると広い空間の向こうに本堂が現れました。戦国時代の寺院の本堂は兵隊たちの宿泊や休息所、本堂の前は兵隊の人溜めとなったと聞いたことがあります。

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屋根には真田の紋章である六文銭が掲げられていました。しゃちほこを乗せる造りも武士が好みそうな造りですね。
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この寺は鬼門の方角にあると紹介しましたが、上田城自体も鬼門除けの細工がされているので紹介します。

城の鬼門である北東の隅は、直角に張り出しておらず、内側に切り欠いた造りとなっていて、このような造りは京都御所の塀にもみられ、山手殿が京都の公家の出とされていることを考えるとますます興味深々なのであります。

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特別に大規模な城ではなかったこの上田城ですが、二度も敵の大群を寄せ付けなかった戦国の語り草となっている真田の戦略は知れば知るほど奥が深く、面白そうです。

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2016年3月14日 (月)

真田氏ゆかりの寺 松翁山「芳泉寺」

今回の真田氏ゆかりの寺は、松翁山「芳泉寺」です。上田城から西に3~400mほどの所に位置しています。

このお寺は真田信之(信幸)の正室であった小松姫のお墓が有ることで知られています。

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山門を見て、あることに気づきました。

「徳川の葵」の御紋、「真田の六文銭」それに「抱き杏葉紋」が山門に有りました。「葵」と「六文銭」は合点がいくのですが、何故「抱き杏葉紋」が有るのかは解りませんでした。

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小松姫のお墓は、本堂の真裏にあり、そのお墓だけ塀で囲まれていて、位のある人のお墓にふさわしく宝篋印塔でした。頭が良くて美しく、武術も堪能な人だったと伝えられています。

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小松姫は本田忠勝の娘で、徳川家康の養女となり、後に真田信幸と結婚しました。徳川家康が真田氏の才能に惚れ、真田勢を自軍に取り込むために才色兼備な小松姫との縁談を提案したと言われているようですが、小松姫も信幸の才能には既に惚れ込んでいたそうです。

後に父昌幸・弟信繁とは敵同士となってしまう運命になってしまいますが、孫に合いに来た昌幸を小松姫は追い払い、敵であることの面目を保って軍の士気を上げたと言われています。

しかし、その行動は本心ではなく、後に九度山へ流された昌幸・信繁に対して信州の食べ物を幾度となく送り届けていたそうです。

また、昌幸は、大坂の陣で敵となった子供兄弟同士が生き残っていることに対して、都合のいい振る舞いの駆け引きではないかと勘ぐられるのを心配し、いっそのこと死んでしまえばお互いの大将に対しての忠誠が真だったと解ってもらったのにと苦しい胸の内を漏らしていたそうです。

どちらも、親子であっても幸せを全うできない戦国の時代の複雑な心境をうかがい知れる悲しくもあり切ないエピソードです。

小松姫は、後に徳川城下の真田藩邸に住んでいたいましたが、病気の湯治のためにと草津温泉に向かう途中、現在の埼玉県で倒れて息を引き取っています。

そのため、小松姫の墓は亡くなった鴻巣の他に沼田、上田などに分骨されたためそれぞれにお墓が存在しています。

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2016年3月10日 (木)

真田氏ゆかりの寺 天照山「日輪寺」

真田氏ゆかりの寺めぐりの2つ目は、上田城から東南に直線で600mほどの所に位置する「日輪寺」です。

寺の表通りには、市内の10ヶ所に設置された「真田十勇士」のうちの「海野六郎」のモニュメントがありました。

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この寺は真田幸隆の生家である海野家の海野幸義が建立し、本尊は幸義の守り本尊の「聖観音」だと言われています。しかし、寺の山号が海野幸義の戒名の「日輪寺殿」から取ったとされていることを考えると真田氏が海野幸義を祀るために建立したと考える方が自然のような気がします。寺紋が六文銭であることもその証だと考えますがどうでしょうか。

「天照山」の山門の先に観音堂が見えてきました。

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お寺の名前はなぜ「○○山△△寺」と山が付くのか。なぜ平地にある門でも山門というのか。と、不思議に思った方はいませんか?そんな疑問を持たれる方はかなり寺好きと思います。

寺の役割は亡くなった人を葬る場所ですが、古来、人は亡くなると山に昇って修行し、暫くすると天に上がっていくと言われていたようです。

そんな霊山の裾に寺を造り、「○○山△△寺」と山名を付け、その山の入口を山門と称したようです。後に人里に建てられた寺もその慣例を習って山名を付けて今に至っているようです。

さて、その山門を潜ってみましょう。正面に観音堂「普門閣」。左に本堂が現れました。本堂が正面でないのが面白いですね。

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屋根瓦は、真田氏のゆかりの寺お決まりの「六文銭」が見られます。六文は三途の川の渡り賃とされていますが、真田氏が命懸けで戦国を渡り歩いた覚悟がうかがえます。

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この観音堂は天明三年の浅間山大噴火の年の建立なので、被災者の慰霊のために建立したのでしょうか。

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このお堂にご本尊の聖観音が安置されています。天井には綺麗な花が描かれていました。

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2016年3月 8日 (火)

真田氏ゆかりの寺 伝叟山「月窓寺」

天気も良かったので、真田氏ゆかりの寺巡りをしてみました。まず訪れたのが、伝叟山「月窓寺」です。

参道を進むと・・・あれ?。しめ縄に紙垂。これは正しく神社。寺ではないぞ・・・。

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ふと、右隣を見ると山門が有りました。どうもその先が寺院のようです。

これは、豊川稲荷系の陀枳尼天(ダキニテン)の神社のようです。寺の入口に守り神としてこのような形式をとる寺はたまにあるようですね。

さて、山門に歩を進めます。

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その奥に更に山門がありました。まるで竜宮城の入口のようですね。

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竜宮門の天井には漆喰で龍が描かれていました。正面が本堂です。

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門をくぐって振り返って見てみました。立派です。

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「月窓寺」の起源は上野(群馬県)の長野原城主だった「常田隆永」が上田城下に仏堂を建てたのが始まりとされていたそうですが、第一次上田合戦の折焼失してしまい、その後、真田信繁(幸村)が上田城から東へ1Kmほどの現在のこの場所に寺院として再建したのだそうです。

寺名は信繁の死後に変えられ、戒名の「月窓伝心」を基に「伝叟山月窓寺」になったと言われています。

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信繁は和歌山県の九度山へ流される折、この寺に馬具や身の回りの品を置いていったとのことです。

 ※このお寺は、4月3日放送分の「真田丸」の最後に紹介される予定です。

 

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2016年3月 5日 (土)

真田街道のお土産は真田一色

「真田丸」で有名になった長野県の上田市から群馬県の沼田市に通じる通称「真田街道」のお土産が今、真田一色となっています。

ということで、そのお土産を「プロが選ぶ観光ドライブイン100選全国第一位」といわれている「浅間酒造観光センター」(群馬県長野原町)で購入してきました。

まず、カスタードプチケーキの「幸村の月姿」

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そして米焼酎「岩櫃城」です。

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面白半分洒落半分で購入したあくまでも「お土産」の領域のもの。

でも、これは旬の限定品のため、いずれは姿を消す可能性があります。そうなると、日持ちのする焼酎なんかはプレミアが付くかもね。

味が良ければ尚更。はたしてそのお味は・・・。

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2016年3月 4日 (金)

JAZZの泉 24/ホレス・シルバー

今日の「JAZZの泉」は、ハードバップの第一人者としてジャズ界を牽引した「ホレス・シルバー」です。

選んだアルバムは、末期の1996年に収録されたズバリ「THE HARDBOP GRANDPOP」です。

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軽快なリズム満載のホレス・シルバーの名盤の数々から無作為にこのアルバムを引き抜きました。こんな選び方をしないと聴くアルバムがどうしても偏ってしまうんですよね。

ホレス・シルバーの曲は、数あるファンキージャズの中でも品の良さをいつも聴く度に感じます。泥臭さがないホレス独特のコード進行のホレス節が聞く度にウキウキさせてくれるのです。

そして、今回のアルバムの中のお気に入りは、ラテンリズム調でまとめられた2曲目の「THE HIPPEST CAT IN HOLLYWOOD」です。

ハリウッドの猫を連想しながら作ったのか、はたまたキレキレのテンポの曲が出来てから頭のいい機敏で優雅な猫が頭に浮かんだのか。もっとも、頭のいい物知りの猫はハリウッドには居そうですけどね。

そんな猫がピアノの鍵盤の上を飛び跳ねているようで◎です。

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