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2011年11月26日 (土)

湯の丸 百体観音 第42番「十一面観音」

「湯の丸百体観音」の42番目は、「十一面観音」です。

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以前、「わらしべ長者」の話を紹介しましたが、「十一面観音」の登場する昔話をもうひとつ紹介します。

その昔、京の都にある長谷寺の門前に貧乏な若者が住んで居ました。若者はどうにもならない貧乏の生活に失望し、最後は神頼みしかないと長谷寺の十一面観音さまに、なんとか貧乏の生活から抜け出たいと毎月縁日に願掛け参りをはじめました。生来真面目な若者は、毎月毎月願掛け参りを欠かさずおこないました。しかし、半年経っても、一年経っても依然と若者の生活は変わりませんでした。周りからはそんな無駄なことはいい加減にやめろと言われる始末。しかし、若者は、三年参りが済むまでは続けると自分の信念を貫き、その後も欠かさず毎月願掛け参りを続けました。しかし、やっぱり生活は一向に良くなる気配が有りません。こんなに真面目に仕事も生活もしているのに、なんて世の中は不公平なんだ、と嘆きました。そしてとうとう三年目の願掛けの月になり、最後の願掛けを済ませ、観音さまにも見放されたとたいそう悲しみました。これでもう願掛けはやめようと思いながら失意の重い足取りで九条の橋のあたりまで来ると、役人に「そこの若者、しばし手を貸せ」と呼び止められました。それは、役人の片付けていたなんと死体を運ぶ手伝いに手を貸せということだったのです。なんと運の無いことばかりと思いましたが、真面目な青年はその死体の片付けを手伝うことにしました。しかし、その死体の重いこと重いこと。気落ちしている所に死体運び。無理もないと思いつつ、一生懸命運びましたが、死体の包まれた布の隙間から死体を見るとどうでしょう。その死体はなんと黄金に輝いていました。その後、青年のやることなすことはいいことばかり、生活はどんどん良くなり、人も羨む大金持ちになりました。

という話だったと思いますが、真面目に諦めずにやなことも不平を言わず頑張れば道は開けるという教えなのでしょうね。私の好きな言葉に「人生にに無駄と遠回りは無い」という言葉があります。今おこなっていることが無駄な事とか遠回りな事だと感じた時、このことが後々絶対に自分の役に立つと言い聞かせています。経験とか実績という言葉を無駄な事だという人はいませんからね。

今日の「湯の丸百体観音」の「十一面観音」も、つぼみの蓮を持ち、百年以上もの長い年月を人々を救済しながら修行を続けています。

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